優しい巨人逝く

届いたばかりの『小松左京マガジン』を読む。小松さんが過去に行ってお蔵入りだった、藤原せいけんへのインタビュー記事が秀逸である。

と、芦辺先生から小松さんの訃報が入った。なんてことだ・・・・。半年前には、80歳のお祝いとマガジン40号祝いコメントを送って掲載されたところだったのに・・・・・・・。
小松さんと直接お会いできるようになって17年くらいになる。『手塚治虫と路地裏のマンガたち』を読んだ小松さんから『産経新聞』で連載中だった「こちら関西 情報発信基地」の対談相手にというご指名があったのだ。驚いた。しかも、本をまとめて買ってくださったというのだから、恐縮した。結局、ひとりでは無理だと思って、牧美也子さんにも加わっていただいた。収録は小松さんの定宿であり、仕事用の部屋もあったホテル・プラザ。記者は平松さん。平松さんとの付き合いもここから始まったのだった。記事にはならなかったけど、小松さんのコジキ修行の話が面白かった。
小松さんは、モリミノルのペンネームでマンガを描いていたこともあって、大阪の戦前戦後のマンガ史をきちんと記録しようとしてらしたのだった。
それからもちょいちょいお呼びがあって、子どものころからの憧れだった大作家に会うという夢のような時間を過ごさせてもらうことになった。パーティなどでも、気さくに声をかけていただいた。東京に来てからは、イオの事務所にも何度か足を運んだ。
ちくま文庫の『上方落語 桂米朝コレクション』の編集では、解説談話をいただき、PRを兼ねた米朝師匠とのビッグ対談もお願いした。楽しい対談の後の会食では、米朝師匠が「あーんして」とお箸を持っていくと、小松さんがそれを食べて、和気あいあいの雰囲気だったなあ。
サンケイホール最後の米朝一門会の後は、最近はお会いする機会がめっきり減っていたのだけど、まだまだお元気だと思っていたのだ。『小松マガジン』にも今年5月11日に箕面のお宅で収録されたインタビューが載っている。「災害防衛国家構想」を出すなど、まだまだ意気軒昂だ。それなのに・・・
またまた、彼岸(あっち)がにぎやかになった。
合掌