1月17日のこと

taihouji212010-01-17

阪神淡路大震災から15年。
幸い我が家は大きな被害はなかったのだが、やはりあの日のことは忘れることができない。
1995年1月17日。成人の日が日曜日と重なって16日が振り替え休日で、あたしは金曜日に頼まれたプレゼン用の企画書を午前中に届けなけれならない日だった。企画書はもう日曜日にできあがっていたのだけど、日曜の後半から熱があって、そのくせ月曜日は、薬を飲んでかなり無理して大阪狭山市の「SAYAKAホール」の日野照正のライブに行って、そのせいで夜は39度近い熱でうなっていたのだった。さらに、この日は「手塚治虫タカラヅカ」をベースにした(最初は「原作で」って話だったのにね)MBSのドキュメンタリードラマのクランクインで、午後には宝塚ホテルに行って、案内役の葦原邦子さんに会うことになっていた。ひどい寝汗で何度か起きて、そのたびに「困ったなあ」と考えていたのだ。
朝方、やっと少し楽になってうとうとしたところで、いきなりドンという揺れがあったのだ。起きだしてみると、玄関に置いてあった熱帯魚の水槽から水がこぼれていたので、あわてて雑巾とバケツを取ってきて、床や壁を拭いて、テレビをつけると「淡路島の北東部を震源とする地震」というニュースをNHKが流していたが、被害の様子などはまるで伝わっていなかった。明るくなるにつれて、いろいろな情報が流れるようになったが、7時頃はまだNHK神戸放送局の前の道に亀裂が入ったとか、周辺の住民が不安そうに表に出ている映像しかなかった。生田神社の屋根が落ちたとか、そういう話で、まさかあんな大惨事が起きていたとは思いもしなかった。関西人は、地震は関東のもので自分たちとは無関係、と考えていた人が多かったと思う。やがて、阪神高速道路が倒壊した映像や、三宮駅前の様子が伝わってきて、やっと恐ろしいことがおきている、というのが分かってきたのだった。
当時住んでいた大阪府堺市の府営住宅でも、3階の我が家は水槽の水だけだったが、6階、7階では家具が倒れた家が多く、周囲でもだんだん大きな騒ぎになっていた。
不思議なもので熱はいつの間にか下がっていた。えらいことになっている、と思ったくせに、それでもなお「企画書を届けなければ」という考えが頭から抜けていなかった。鉄道情報は阪神間の各線の不通を伝えていたが、南海電鉄は路線点検が終わり次第動くとのことだった。地下鉄は不通だったが、難波まで出れば・・・・・そんな風に考えていたのだ。
テレビは、「どこそこで火の手が上がった」とヘリコプターからの映像を流し続けていたが、それが実際にすぐ近くで起きていて、人の命が危機にさらされているという実感がどうしてもわいてこない。そういう反応をする自分が人間としておかしいとは思うが、確かにそうだったのだ。
お昼くらいに、南海電車が動き出した、というので企画書をかばんに詰めて駅に向かった。難波につくといくつかのビルの窓ガラスが割れていた。「これは事務所はあぶないな」と思いながら心斎橋まで歩いて、第3大京ビルの前まで行ったが、別になんともない。ただ、部屋に行くとドアの横にあったスチルの棚が倒れて、ドアが開かなかった。あきらめて、四ツ橋を越えて件の取引先に行くと、企画書を依頼した当のAさんが倒壊した自宅の下敷きになっていると聞かされた。このときやっと、あたしには今朝からの夢の中の出来事のようないろいろが、現実のものと理解できたのだ。
出社していない社員が多かったため、あたしは電話番を頼まれた。MBSはこんな事件が起きたのだからドラマどころではないだろう、と考えて引き受けることにした。かかってくる電話はようやくつながった、という社員からのものがほとんどだったが、関西以外の取引先からのプレゼンやカンプの締め切り催促の電話もあって、一瞬絶句した。事情を説明してもなかなか分かってもらえないのだ。
Aさんとご家族は夕方までに救出されたが、生き埋めのまま火に巻かれて死んでいった人も多かった。いろいろなものを失った人々もいる。今は、あんなことはごめんだと願うことと、亡くなった方たちのご冥福を祈るだけだ。