熱海殺人事件

つかこうへいの訃報に接した。
大学時代に、心斎橋パルコの上にあったパルコスタジオでつかこうへい事務所の『熱海殺人事件』を観たあたしは、とにかくびっくりしたのだった。三浦洋一加藤健一、平田満、井上加奈子の4人のエネルギーに圧倒されたのだった。ぶつかり合う言葉、流れる汗、ライトに当たって虹になる唾……その頃は、彼らの背後につかこうへいという男がいて、その無尽蔵のエネルギーが舞台の上の若者たちを突き動かしているなんて気がつかなかったのだ。
島之内劇場で『ストリッパー伝説 火の鳥』や『飛龍伝』などを観るようになると、大阪に公演が来るのを待っておれずに、在来線を乗り継いで東京まで芝居を観るために出かけるようになった。紀伊國屋ホール、西武劇場、高田馬場東藝ホールずいぶんいろんなところに行った。戯曲集や小説も買った。戯曲集『熱海殺人事件』を読んで、つかこうへいのお芝居が紙に書いたセリフの枠をどんどんはみ出していることを知ってわくわくした。そうか、ライブだもんな、などとわかったようなことを友達に話した。
そうこうするうちに最後には、自分たちでも芝居をつくりたくなって、大学に演劇部をでっちあげた。当時和歌山大学には演劇部があっても休部状態で、それを再開するという恰好で文化部にも紛れ込んだ。演出や役者は無理なので、大道具を買って出て、演出や芝居のできる人間を捜し、下宿の仲間たちを巻き込んだ。いつもこの調子でまわりに迷惑をかけているのさ。
舞台に足を運ばなくなったのは、『蒲田行進曲』が映画になって、つかこうへいがメジャーな存在になってしまったからだったと思う。昨夜から今朝のテレビニュースでつかこうへいの代表作として『蒲田行進曲』ばかりが語られているのはずいぶん違和感があるのだ。あたしにとっての代表作は『熱海殺人事件』なのだ。最後に舞台を観たのは『いつも心に太陽を』だった。自分たちだけのつかこうへいでいてもらうには、つかこうへいという人が大きすぎたのだろうなあ。うんと遠い存在のままで死んでいったのだなあ。

小説熱海殺人事件 (角川文庫)

小説熱海殺人事件 (角川文庫)

↑ 最初の文庫版のカバーは和田誠さんで、公演のポスターも和田さんが担当してらした。

朝から日本の電子コミックビジネスに関する原稿。これは、精華のベルントさんがヨーロッパに日本のマンガ状況を紹介する一環なので、翻訳が前提である。となると、翻訳しにくい言い回しはなるべく避けなければいけない。これがなかなか面倒なのである。

昼は「ねぎし」。

水無瀬さんから、『日経新聞』に『「はとバス」60年』が紹介された記事が送られてきた。

原稿は4時に完成。いったん送って、翻訳上の問題点などを指摘してもらうことにする。

「せこむらいふ」の取材先が長崎に決まったので、阪急交通社で宿の手配など。

精華大の事務局からは集中講義の確認電話。

百田さんの葬儀に弔電を打つ。行かなければならないのは重々承知であるが……。